愛媛県に生まれたゆとり世代

小さいころから運動が苦手で、かけっこはいつもビリ

幼稚園ではイタズラばかりして先生を困らせる

そして弱虫で泣き虫

好き嫌いが多くて、給食はいつも一人だけ教室に残って苦手なピーマンと格闘している。

そんな幼少期を過ごしたかじしょーは、1989年3月11日に愛媛県生まれました。

小学校1年生から、父の影響を受けてサッカーを始ました。

とにかく運動音痴でさらに根性がなかった私は、走り回るのがしんどいサッカーが大嫌いでした。

3年生の時、ゴールキーパーなら走らなくて楽ちん!という安易な発想でポジションチェンジ

暑くても寒くても雨が降っていても立っていないといけないのは、それはそれで退屈でした。

結局、サッカーが好きにならないまま、なんとなく続けてきました。

家では父が厳しく、人に迷惑をかけたり、悪いことをするとすぐに怒られました。

そのおかげで「超」が付くほどの真面目キャラになりました。

運動はイマイチでしたが、勉強はそこそこできました。

厳しい父ではあったけど、テストの結果がよかったときは誰よりもほめてくれたし、

結果が悪かったとしても、次頑張って良い点を取るようにと、怒られることはありませんでした。

中学校に入って真面目キャラが加速

校則は基本的にきっちり守り、成績もそれなりに良い方でした。

親から勉強しろと怒られることは一度もなかったです。

部活はサッカー部に入部し、補欠のゴールキーパーとして3年間を過ごした。

県大会に出場することもできたのですが、残念ながらピッチに立つことはほとんどなく
サッカーでは結果が出せずに、ただ厳しい練習に耐えるだけでした。

なのでこの時もあまりサッカーを好きにはなれませんでした。

部活ではパッとしないし、学校では真面目キャラを貫き、クラス委員や「人権を考える会」という任意の会の会長なども務めたため「内申点稼ぎ」として腹黒キャラに昇華しました。

このころからいじめの対象になります。

いじめは辛かったですが、不登校になるほどでもなく、学校の相談室の先生に話をして
いじめの当事者たちが集めて話し合いの場を設けてもらい、和解することで収束しました。

その後は、いじめっ子たちと気まずい空気がありましたが、クラスの友人たちと普通に仲良く過ごすことができました。

私が住んでいた田舎には県立高校が3つあり、中学校を卒業すると、ほとんどの学生がそのうちの1校に入学します。

将来を見据えて私立の学校に進学する生徒もごくまれにいましたが、ほとんどの生徒が県立の3校のどこかに入学する。

私はというと、みんなと同じ進路は嫌だ!という謎のこだわりで愛媛県にある新居浜工業高等専門学校というところに進学することを決意しました。

いわゆる高専というやつです。

高専の入試過去問を購入し、入試前は毎日問題を解いたことを今でも覚えている。

高専に無事合格、材料工学科に入学しました。

高専を卒業していることをいうと、「すごく頭が良いんですね」などと言われます

しかし当時の新居浜高専の材料工学科というのは、全国の高専の中で一番成績が悪いクラスと言われていました。

事実かどうかはわかりませんが、勉強している内容が特殊というだけで、頭の良いやつばかりが集まっているわけではなかったです。

高専生活5年間を振り返ってみるとなかなかのクソ男っぷりだったと思っています。

高専というくくりのなかでは最下層にいたわけですが、

中学からの貯金もあってある程度勉強ができました。

そのせいで周りの生徒を見下していたところがありました。

家族は高専に入学したことを褒めてくれましたし、中学校から真面目を貫いていたので、自分が絶対正義の完璧な人間だと思い込んでいたのです。

勉強ができない人たちと自分は住む世界が違うと思って見下していると、あっという間に周りに人はいなくなりました。

友人がいないというのは高専で生活するうえで致命的です。

なぜなら、定期テストは情報戦で、その情報源がなくなってしまうからです。

友人が多いほど情報は集まりやすいのです。

寮で生活している生徒は、先輩たちとのつながりが濃く、非常に効率的に勉強をし、

テストで高得点を叩き出します。

この傾向は高学年になるにつれて顕著に表れます。

私は上下のつながりはなく、友人もいなかったため、情報が全く入ってこず、

卒業するころには完全に落ちこぼれになっていました。

先生からも見放される始末で、就職活動でも勝手なことをし、先生たちを困らせてしまいました。

今でこそ、すべて自分の未熟さが原因だった理解しています。

しかし、当時は
「なんで誰も俺にすごさがわからないんだ?」
「めっちゃ朝早くに教室きて真面目に勉強してるのに」
「授業中寝てて、先輩からもらったカンペだけで点数とれるってふざけんなよ」
「ほんまこいつらくそやな、絶対ろくな人生送れんわ」
と心の中で常にぼろくそに思っていたわけです。

実際どっちがいい人生かというと
勉強なんかできなくても、友達たちと放課後楽しく遊んだり、一生懸命部活に励んだりするのが素敵な学生生活だと思います。

高専に入学してから、サッカー部に入部を検討したのですが
私は自宅から学校まで片道約1時間半かけて通学しており、部活が終わって家に帰り、宿題をして次の日また学校に行くというのがどう考えても現実的ではなかったので断念しました。

おそらく、サッカー部に入部していたら帰宅は23時頃になっていたと思います。

そこから宿題をすれば就寝は2時とか3時とか、次の日また6時に起きて・・・・。

これは続かないだろうと思い部活に入るのを諦めました。

そもそも、自分がサッカーをやるのまだ楽しいと思えていなかったんでしょうね。

その代わり、自分が小学生の時にお世話になっていたサッカーチームの指導者としてサッカーに携わることを決意しました。

毎日学校が終わると、真っ先に家に帰り、小学校のナイター練習に参加したり、

土日は練習や試合などで毎週休みないくらいサッカーを続けました。

高専の友達と関わることもほぼないし、土日に遊びに行くこともなかったので、

高専の5年間の大部分を少年サッカーで過ごしたことになります。

ここでも自ら上下関係を断っていたのが非常にもったいないな、と今では思います。

高専在学中はアルバイトもしていたのですが
「こんなに頑張って働いているのになんで給料上らないんだ!」
「この店が悪い!」
などといちゃもんをつけては転々とバイトを変えるひどい奴でした。

結局高専の5年生になってからはバイトをすることもなく、お小遣いをもらっていなかったので、自由なお金がない生活を続けました。

あの時は、缶ジュース一本買うことができない自分のみじめさが本当に辛かったです。

たまに友人に誘われても、遊びに行くことができないし、
周りの連中はみんな部活やったりバイトやったりして楽しそうに青春を謳歌しているのに、
なんで自分ばっかりこんなひどい目に合うんだ!と、悪いことのすべては周りのせいにして、
自分で改善するということ全くしていませんでした。

就職活動では受けたい企業があり、そこにエントリーするためには担任から推薦状を書いてもらわないといけませんでした。

ですが、「そんなもん担任が勝手に用意してくれるだろう」と思っていた私は何も行動せず、

ある時、担任から一言「自分で言いに来ないと誰も推薦状なんか書いてくれんで?」と言われました。

その一言に、なぜか私はイラっとして「なんでそんな言われ方されないといけないねん!」という思いが爆発。

推薦状なしで一般の大学生がエントリーするフォームから無理やり応募をかけました。

すると企業から担任に直接連絡が合ったらしく、「勝手なことされると困る。だけど今回先方が特別にエントリーを認めてくれたから、来週までにこのSPIの本に全部目を通して、それから面接を受けてきなさい。」といって、企業から郵送で送られてきた分厚いSPIの本を手渡されました。

その時に私は「こんな分厚いの一週間じゃ無理です。やめます。」といって本を受け取らずにその会社を諦めました。

とんだ根性なしですね。私が先生なら激怒するレベルですが、その先生はあきれ果てて何も言いませんでした。

結局、就活シーズンが過ぎ、クラスの中で内定がもらえていないのは5人程になりました。

焦りに焦って、家の近所の鉄工所を受けることにしました。

面接と簡単な試験を受けて、一週間、無事内定通知を頂きました。

そして、そんなクソ男でも、なんとか留年することなく高専を卒業することができました。

鉄工所に入社してからが地獄

家族からは、「地元じゃ優良企業だし、入社したら一生安泰」
などと自分を持ち上げてくれました。

いい会社に入れたんだなと調子に乗っていましたし、高専を出て優良企業に入社した俺はエリートなんだとずっと思っていました。

鉄工所では、高専で軽く触ったことのある機械を使っての現場仕事をすることになりました。

「自分、高専で使ったことありますからできますよ!」と調子に乗っていました。

ですが、職人の世界はそんなに甘くありません。

入社してすぐの若造にマネできるはずはありません。

0.001ミリの精度を求められる世界で、金属を加工するのはかなりの技術を求められます。

精度を求める前に、まずミスなく形を作ることが重要視されました。

なぜならミスすれば、もう一度材料を発注して、前工程からやり直しです。

しかし私は残念なことにミスしてばかり、しかも確認ミスなどがほとんどです。

そのたびに先輩上司に大目玉をくらいましたが、いつまでたってもミスを減らすことはできませんでした。

思い返せば、私は小さいころから「見直し」という工程が非常に苦手でした。

間違い探しがヘタクソなんです。

テストの見直しでも、「これは100点だ」と思っていたのに、結果は95点だったりすることがよくありました。

見直ししても絶対にミスは見つけられないものと思い込んでいました。

なので、学校のテストでは見直しをすることをやめました。

そんな幼少期を過ごしたいたので、ミスすることが当たり前という考えのクソ社員になってしまいました。

さすが、平成のゆとり世代と何度も言われました。

お前はダメな社員だなと何度も言われました。

でもなんでダメなのか自分でもさっぱりわからず、何度も確認するんですが、間違いを見つけることができずにミスにつながるというのを何度も何度も繰り返しました。

怒られるたびに気分は落ち込み、落ち込んだままで作業してまたミスをするという悪循環に陥ります。

正直会社が嫌で仕方なかったんです。これが定年まで続くのかと考えると死にたくなりました。

結局、高専を出てエリートとして会社に入社しても、怒られてばっかり。

何で誰も俺の良さがわからないのか。この時もまだ、原因は自分じゃなくて周りだと思い込んでいました。

クソですねぇ。

そんな時、高専時代の唯一仲の良かった友人と久しぶりに会う機会がありました。

彼は、卒業後大手企業に就職したが、その後早々に退職したそうです。

そして、大阪にある南大阪高等技術専門校に入校し、情報通信を学んでいました。

いわゆる職業訓練校です。

「ここに入校すれば、一年間でいろんな資格が取れるよ!」
「一年間は雇用保険をもらいながら生活ができるよ!」
「就職先も安定してるから、転職を考えるならオススメだよ!」

と教えてくれました。

かなり迷いましたが、この訓練校を受けることを決意しました。

今まで積み立てしていた毎月の預金額を引き上げて、一年後の入試試験までにまとまったお金を用意することも決意しました。

この学校に通うことになると、実家を離れて初の一人暮らしを大阪ですることになります。

積立額を挙げて来年に向けて頑張るぞと思った矢先、

あの日がやってきたのです。

2011年3月11日

この日は私の弟が進学で実家を離れるにあたって、父母弟の三人が神戸に引っ越しのために出かけていました。

私はいつも通り会社で仕事をしていたのですが、夜勤でやってきた先輩が会社に来るなり、
「面白いものをみせてやるよ!」といって携帯の画面を見せてくれました。

そこには水で流されているたくさんの車。

「麻雀パイみたいやなぁ」と面白おかしくいう先輩

「これなんですか!?」と聞くと「津波や」と一言

家に帰って地震があったことを知り、父に電話をしてみをしてみたのです。

地震の規模が想像できず、東京も揺れたとのことだったので、まさか関西も被害を・・・?
ということで念のため電話したのですが、一向につながらない。

まさか自分の誕生日に家族全員仏様に!?という嫌なおもいが頭をよぎります。

何度も電話をかけましたが、この日は電話が繋がることはありませんでした。

次の日、朝起きて会社に行き、不安な想いで仕事をしていると携帯に母から電話

仕事中だったので出ることはできませんでしたが、ひとまず生きているんだろうなと思って仕事終わりにまで放置することに

仕事が終わって電話をかけると、三人とも無事とのこと。

たった一日電話が繋がらないだけで、これほどまでに不安な想いになるのか。

同じ想いを抱いた人は五万といただろう。

この通信インフラをなんとか変えることはできないのだろうか。

そんな思いが強まって、より一層大阪の訓練校に対する想いは強くなりました。

ハローワークにいって職業訓練校のことを伝えたのですが、前例がないことと、
既に会社に勤めていることを理由に最初は取り合ってくれなかったのですが、

もう一度ハローワークで、どうしても受けたいということを伝えて、ようやく訓練校の情報を調べてくれました。

入試の日にちと場所を調べてくれて、当日履歴書をもって大阪にいって欲しいとのこと。

急遽、訓練校の友人に連絡し、一週間ほど家に泊めてくれ!とお願いして、訓練校の入試を受けに行きました。

初めて1人で大阪に行きました。地下鉄に乗るのも初めてです。
女性専用車両に乗り込んで白い目で見られました。

そんなドタバタを経験していざ受験。

面接では大事なところで言い間違いをしてしまったりと感触的には「落ちなた」という感じでした。

それでも少しの望みにかけて、合格発表を待たずに先に会社に辞表を提出。

なぜなら、入校時に無色であることが条件だからです。

これで学校受からなかったらどうしようと、毎日胃が痛かったです。

そして一週間が過ぎ、結果発表の日、友人に結果を見てもらったところ

無事に合格

ここからが大忙しです。

引っ越しのために大阪に行き、何処のエリア担当かもわからない賃貸仲介屋さんに駆け込んで物件を探し、早々に決定。

家の荷物をまとめて初めての一人暮らしをスタートさせました。

訓練校ではいろんな年代の人と一年間生活を共にしました。

資格もたくさん取らせてもらいました。

第二種電気工事士の資格に始まり、一級陸上無線技師や工事担任者AI・DD総合種、アマチュア無線まで取りました。

この訓練校の卒業資格として、電気通信主任技術者という資格も取ることができ、
その後会社の実務経験3年を経て教員免許も裏技取得しました。

訓練校では今のカメラのお師匠さんとも出会いました。

初めてのことがたくさん自分の身に降りかかってきて、とても大変な日々でした。

人生で最も参考書を読んだのもこの時です。

でもこれは、ある意味自分で決めて行動した最初の出来事だったと思っています。

実は高専に入学することを決めたのは、みんなと一緒は嫌と言い続けた結果、親が高専いけば?と提案してくれたからなんです。

サッカーを始めた時も、友達がサッカーやっているから。

思い返すと、自分の意志で何かに挑戦することってなかったんですよね。

訓練校に通って1人暮らしを始めるということに、鉄工所の人たちは反対してくれました。

卒業したら戻ってこいとも言ってくれました。

それでも、私の両親だけはこの時の決断に反対せずに黙って引っ越しの荷物に日用品を詰めて渡してくれました。

きっと私が自分で決断したことならと信じて送り出してくれたんだと思います。

そのかいあって無事に訓練校を卒業し、再就職を果たしました。

再就職を果たしてから

就職先は兵庫県神戸市

現在勤めている会社に8年前に入社しました。

田舎から都会へ出てきたこともありますが、前職に比べて

給与は大きく増えました。勤務時間は前職に比べて少なくなりました。

転職大成功というわけです。しかも3K要素は全くありません。

この会社は電気通信・無線通信の法律やさんです。

前職に比べると圧倒的に仕事が楽ですし、前職のように嫌な思いを抱きながら仕事をしているというわけではありません。

しかし、サラリーマンの宿命ともいえる出世については、
おそらくその道が用意されていないことを考慮すると、
早いところ会社を卒業してしまいたいという思いです。

この会社に入社してもしばらくの間は、エリート気取りが抜けませんでした。

訓練校でしっかり資格をとって、陸上無線最上位資格も取得し、なんでもできる偉い奴だと勘違いしていました。

会社に入社してからはなんでも「はい!」と返事して言われたことを徹底してこなすことだけに全力で取り組みました。

この考えがまずかったのです。

言われたことしかできないからです。

今の会社というのは、新しいことに自ら挑戦しろ!と常に言われています。

しかし、実際は、新しいことをしようとすると、出る杭は打たれてつぶされてしまいます。

協力者を得ようと周りに声掛けしても、なかなか賛同者が集まらず、行動に至れないことばかり。

結局言われたことだけをコツコツやっていれば、それなりにお給料が頂けるという残念な会社です。

残念な会社だと思っていました。この時は。

会社勤めも3年目を過ぎたあたりから少しずつ不満が出てくるんですよね。

「なんで、俺の考えが通らないんだ?」
「この方が合理的じゃん!」
「これ無駄な作業だしやらない方がいいでしょう!?」

こんなことばかり口にしていたので、上司は渋い顔をして取り合ってくれません。

「全くわかっていない。上司含め経営陣何考えてんだよ。」

こんな不満が募るばかりでした。

そんな中、仕事の配置換えが発生しました。6年目でのことでした。

配置換えに伴って新しい仕事を覚えることになるのですが、

今まで見たことのない法律を扱うのはかなり大変で、素養のない人間にとっては苦労します。

しかし、6年目ということもあり、自分で調べて、自分でやってね。
と言われ完全に放置状態にされます。

そんな状態で、仕事に取り組むのですが、ミスが続発します。

何度やっても同じミスを繰り返したり、気を付けてミスを発見すると今度は別のところでミスをしていたり・・・。

いたちごっこな状態が続いていました。

上司からの評価は、こいつ使えないな。ということで一年ちょっとでそのポジションを下ろされてしまいます。

これを期に完全に出世コースは断たれたと思っています。

もう一つ、後輩の存在が大きいということ。

後輩は、社長と同じ大学を卒業し入社してきました。
社長とその大学とは交流があるので、大学の卒業生ということであれば、
かなりかわいがってもらえているようです。

社長にかわいがってもらえると、いろんな部署の方からもかわいがってもらえるようになります。

そうすると次第に後輩のもとには情報がたくさん入ってくるようになります。

情報を持っているものは会社の中でもかなり強いです。

後輩は私が知らないことをたくさん知っています。

それに加えて仕事は丁寧でスピーディということもあり、評価もうなぎのぼりです。

すぐに追い越されて、私が追いつくことのできないところまで駆けていきます。

そういうことならば、今私にできることは後輩の踏み台に全力でなることだと思っています。

踏み台になるということは私にとっても悪い話ではありません。

私はこの会社を卒業したいわけです。

この会社で功績を残して出世してしまうと、卒業しにくくなるわけです。

それだけでなく、出生して役職が与えられると、残業手当が出なくなり、給料は実質マイナスになります。責任と仕事量だけは増えます。

つまり私は、できれば出世せずに、できるだけ会社の中ではエネルギーを使わずに業務をこなしたいと思っているわけです。

なので、仕事で出した成果をすべて後輩に譲っています。

こうすることで、社内評価が私はマイナス方向に、後輩はプラス方向にどんどん進んでいきます。

解雇を命ぜられるまではこのままでいいと思っています。

これを放置してくれるのはこの会社の良いところだと思っています。

もちろん後輩に全部を任せっきりにするのではなく、ある程度コチラで仕事を捌いたり情報を提供しながら、最後のおいしいところだけを後輩に与えているので、損している人はいないと思っています。

会社の仕事自体も、極力無駄をなくす仕組みを考えて、考えた内容をそれとなく後輩に話します。

あとは後輩が上司に提案して、後輩の信用もあって提案がすんなり通ります。

私は以前仕事をおろされた身なので、なかなか提案を聞き入れてもらえません。

どれだけいい案があってもバイアスがかかっていて、没になってしまう可能性が高いです。

その案が通らないことで、会社全体の機会損失にもつながるかもしれません。

なので、本当にいいアイデアは必ず後輩を通して上司に伝わるように仕組んでいます。

提案が通れば会社の業務は時間短縮になり、私は無駄な仕事をカットすることができ、もちろん後輩の仕事もカットされた上に評価まで上がる。

まさに三方ヨシです。

こうやって、私は仕事の量を減らし、定時退社してブログを書く時間を確保したり、ペライチの作成代行をしたりしています。

今まではなかなかこんな考え方ができなかったのですが、
のこの考え方に至るまでにとても大きなきっかけがありました。

失恋という名の喪失体験

この時付き合っていた彼女と私はなんとなく結婚するだろうなと思っていました。

勝手に思っていました。

当時はまだ自分が絶対正義だという考えがこびりついていて、

何をやるにしても自分の思った通りでなければ人の意見を受け入れない残念な男でした。

こんな状態だったので、彼女もかなり窮屈だったと思います。

そして、26歳の夏、彼女と旅行に出かけました。

以前から彼女が行きたいと言っていた福井県のビーチです。

念願の場所にやってきたのですが、なぜかずっと浮かない表情の彼女

そして旅行から帰ってきて、彼女を家の近くまで送り届けたところで、
別れを切り出されました。

何度か復縁を迫りましたが、全然ダメ

もう一度彼女に振り向いてもらうためにはどうしたらいいんだろうということを一生懸命調べました。

知れべれば調べるほど、復縁ができないのは、自分に男としての魅力がなかったから。
ということに気づかされました。

これは、彼女が悪いのではなく、自分が悪いから振られたのだと。

今まで考えなかった、自分の非を認めるということがこの時初めて訪れたのです。

それからは、自分の何がいけなかったのかを調べました。

読書をするようになったのこのころからです。

本には自分の欠点を見つけ出すためのヒントがたくさんありました。

調べれば調べるほど、今までの自分ってエリートでもなんでもなくて、底知れぬクソ男だったんだなとようやく気付き始めます。

気づいたはいいものの、20年以上しみついたその体質をいきなり変えることはなかなかできません。

もしかしたらいまだにクソ男のままかもしれません。

自分で気づいたところは改善しようという意識は持って日々生活しています。

この時、私に自分と向き合うきっかけを彼女がくれたのだと、別れた後になって思うようになりました。

彼女にたくさん迷惑をかけた謝罪の気持ちと、気づくきっかけを与えてくれた感謝の気持ちが今もずっと心に残っています。

残念ながら、別れてからは会っていないのでこのことを話す機会は今のところありません。

喪失体験があって、人の見方、ものの考え方が徐々に変化してきています。

他人と自分を比較することがなくなってきて、自分は自分、他人は他人と切り離して物事を考えるようになってきました。

他人が良い思いをしていたとしても、それを羨んだりすることは時間の無駄だということに最近になって気づいてきたのです。

羨む時間があるのなら、その時間で自分が一生懸命努力して、その成果をはるかに凌駕する結果に結び付ければそれでいいじゃないか。という考え方がになってきました。

常に自分が人生の主人公であって、自分の軸を基準に物事を考えることが大切だなということ。

自分が他人に何かできることがあるのであれば、それは惜しみなく与えてあげたい。

これは、常にどこかで劣等感を感じていた自分に必要だったことであり、同じ境遇に立った人の手助けくらいはできると感じたからです。

今の会社に勤めて9年目になりました。

入社して仕事の内容は全く変わっていません。

自分は仕事ができない社員だから仕事を任せてもらえません。

これは今すぐに自分でどうにかすることができません。

自分がこれから仕事で少しずつ信頼回復して実現できるかどうかというところです。

それならば、不確実な自分の昇給のために成果の無駄遣いをするのではなく、後輩に譲ろうと思っています。

後輩ができる仕事を後輩から奪ってはいけませんしね。

手一杯で回らないときはちゃんと手伝いますし、滞りなく進めているのなら、その間は私が楽をさせてもらって、会社の業務効率のためのネタ探しとこっそりとやる方が会社全体のパフォーマンス向上には繋がると思っています。

今は個人の出世や昇給などの欲ではなく、会社全体の売上アップにフォーカスして、そのために自分は何ができるか、自分の時給が最大限になるのはどんなときかを考えて行動しています。

これも偽善と言われてしまえばその通りで、クソ男から脱却できていないということになりますが・・・。

ほんとにいつになればまともな人間になれるんだろうと思う日々です。

仕事に対する思い

神戸に越してきてから、自分でビジネスをしたいという願望を持ちつつも
何をしたらいいのかわからず、結局行きつくのはネットワークビジネスなんですよね。

私も何度か勧誘されたのですが、あの人たちのパワフルな押しの強さとノリはどうも肌に合わず、
あやしさ丸出しなので直感的に回避し続けてきました。

そんな中、昨年の春頃、早起きをする習慣を身に付けたいと思って、朝活のサークルにさんかすることにしました。

朝活に参加してみて、運営者の方に「一緒に運営やって見ない?」とお誘いを頂きました。

即答で「やります!」と返事して、朝活の運営に携わることに。

二週間に一回程度、参加者にセミナーをするという内容で、自分の持っている知識を参加者にシェアしました。

そこから、徐々に、副業を目指すには?というテーマの活動になり、

運営していた方の教えの元、自分でお金を稼ぐことを強く意識するようになりました。

最初は指示の通り活動していたのですが、これではダメで、自分で考えて行動するように言われます。

しかし、自分で考えて行動をしたことがなかったので、何をすればいいのかが全くわからず、
期待する結果を出せないまま、自分の覚悟も決まっていなかったこともあって、
その方から教えていただくのはそこで終了となりました。

今は完全に1人でどうすれば成功するのかを考えている日々です。

これでも以前の自分に比べたらすごい進歩です。

毎日ツイートしたりブログを書いたり、ペライチ作成代行をしたり、

こんなことするような人ではなかったです。

今は何が正解変わらないまま行動していますし、あたりを着けて行動していますが、
これが大きく外れていて、かなり遠回りする結果になるかもしれません。

ですが、今の会社に雇われ続けて、後輩に追い越され、後から入って来る新人たちにも追い越され、給料も上がらず、自分のしたいことの挑戦もできない環境に長く身を置いておくよりはマシだと思っています。

だから、行動を続けて自分の力でお金を稼いで生活ができるレベルまで成長した。

そして、もっと稼げるようになったら自分の身近な人の雇用につなげたいし、自分が成功できたノウハウを同じ悩みを抱えている人たちに伝えたいと思っています。

未来の理想を現実化するための長い実験期間にいます。

これからいろんな取り組みをしたり、あっさりとやめちゃったりすることが何度もあると思います。

それでも、皆さんに少しでも有益な情報をお届けできるように、
自分の持てる時間や知識、リソースを活用して全力を尽くしますので、今後ともよろしくお願いいたします。

以上!かじしょーのプロフィールでした!